「純粋な愛」「私は生きています」
白いカーネーションの花言葉である。
その白いカーネーションが添えられた元に眠るのは、
かつて幕末の動乱期に日本にやってきた初めてのスイス人時計師。
横浜外国人墓地の中でも最も古い区画に眠っている。
その事を証明するかのように
すぐ側には生麦事件(1862年)で命を落としたイギリス人も眠っている。
スイス人時計師の名は「フランソワ・ペルゴ」。
高級時計メーカーとして知られる「ジラールペルゴ 」、
創業者コンスタン・ジラールの義弟、妻マリー・ペルゴの弟だ。
命日である12月18日には有志が集い思いを馳せ冥福を祈る。
彼は1877年(明治10年)異国日本の地で脳卒中によりこの世を去った。
スイスから日本へやってきたのは1860年(万延元年・安政7年)。
大老井伊直弼暗殺という桜田門外の変が起こり激動の日本へと変わり行く年。
先ほどの生麦事件も1862年(文久2年)で彼が日本にきた後のことだ。
彼はそんな激動の日本へ、
スイス時計製造組合の代表として日本でのスイス時計販売を目的に異国の地を踏んだ。
しかし、日本では不定時法という日の出日の入りを基本とする日本独自の生活。
横浜の居留地に設立したスイス時計製造組合は解散することに。
現代と同じ定時法の高級なスイス時計は見向きもされなかったであろうことは想像に難くない。
そしてエドワード・シュネルという人物とシュネル&ペルゴ商会を設立、
激動の日本にあってシュネルが武器取引を主としたことによりやがて解散。
艱難辛苦の中、信念を曲げなかった。
彼の名を冠したフランソワペルゴ商会を設立。
彼は異国相手に炭酸飲料水の販売を行いながらも決して時計の普及と販売を諦めることはなかった。
やがて日本にも鉄道が敷かれ1973年(明治6年)に西洋式の定時法が正式採用される。
ようやく努力が実り、事業が軌道に乗ったのもつかの間、1977年(明治10年)会社が火災に見舞われてしまう。
会社の立て直しに奔走する中、心労がたたり脳卒中で倒れ、43歳という若さでこの世を去った。
彼は志半ばであったが日本における時計の普及に多大なる貢献をした。
彼がいなかったら、
彼の信念がなければ、
日本の時計の歴史はどうなっていたであろう。
彼は初めに日本に12個の懐中時計を持ち込み日本人好みの時計を探り発注していたと言われる。
また日本人に武器を売ることを反対したとも言われる。
そして他の時計を扱う外国商館とも親交を深め惜しげもなく尽力したとも言われている。
そうした彼が駆け抜けた人生はあまり知られていない。
敬愛する方からこう言われたことがある。
「時計は相手の為にあるの」
「時計は人との縁を繋ぐもので平和の象徴」
その後にこう教えてくださった。
「無人島で生活していたら時計はいらないでしょ」
「醜い人間は自分本位に考え時計で時限爆弾をつくるの」
「大切な人と会う時は時間を気にしながら楽しみにするでしょ」
その言葉はあまりに衝撃だった。
時計が好きで常に愛用しているがこれまで考えたことがなかった。
会話の最中、思わず時計に目をやった。
その時計から時を刻む音がかすかに聞こえる。
「純粋な愛」「私は生きています」
フランソワペルゴの信念に触れた気がした。
この先の人生、時計との向き合い方が変わるだろう。
photo.KJ
text.KJ
© TradTrad OFFICIAL WEB SITE