近頃、物事において「味気がない」と感じることが多くなった。
スケジュール管理には欠かせないカレンダー。
1日に幾度となく見るのだが、ふと味気なさを感じてしまう時がある。
決まってそれはスマートフォンのカレンダーを見ている時かもしれない。
普段からスマートフォンのカレンダーと手帳を併用しているが、手帳を開いているときはその味気なさを感じることはない。
手帳は考えごとをしている際には開けていることが多く、むしろ手帳を目の前で開くことによって思考のスイッチが入る感すらある。
そんな時ほど何かを書きたいという衝動にかられる。
スマートフォンのメモやカレンダーではこの衝動は一切起こらない。
スマートフォンで検索したりメモをしたり、スケジュール管理などをするには大変便利で多用するが、不思議なことに書きたいというような衝動にはかられないように思う。
この違いは何からくるのだろうか。
原稿がないと書けないという作家の方もいるという。
やはり環境によるところが大きいのかもしれない。
インターネットや携帯電話がなかった時代を経験した者は書くことが当たり前だった。
以前、ラインなどのSNSが当たり前に育った子達から「メールをしたことがない」と聞かされ環境とは凄いものだと思い知らされた。
スマートフォンの進化は目まぐるしく、様々な機能が増えた。
知りたいことを問いかければ答えてくれ、メモとして打ち込んでもくれる時代。
しかし、そういった子達でも「味気がない」と感じることがあるのだろうか。疑問がわく。
それが当たり前の子達であっても学生時代ではノートに書いて学び、書くことは日常にある。
書くといえば、万年筆や手帳など意外にもブームになっている。
スケルトンの軸を持つ万年筆に好きな色を入れ複数本持ち歩き、カラフルに手帳に書き込んでいるのを目にしたことがある。
以前の万年筆は、ブラックかブルーブラックといった色を入れ、書いていただけだった。
今の万年筆の使い方は少し違っている。
3色ボールペンのように色を分けて、数本の万年筆を使っているのだ。
そして手帳も自由な使い方になってきている。
絵やシール、プリントアウトしたものを貼ったりとまさに自由。
今の時代では昔からあるものをそのまま使うのではなく、自分らしく自由に使いこなしている。
この「自分らしく自由に」というのが鍵に思える。
昔からあるもの、当たり前にあるものをそのまま使うのではなく、「自分らしく自由に」カスタマイズするわけだ。
近年各メーカーが参入しているスマートウォッチなどもそうかもしれない。
昔からある腕時計という文化を新たにカスタマイズしている。
今やスマートウォッチは、歴史を誇るスイスの時計輸出量を上回ってしまった。
フィルムカメラがデジタルカメラとなり、老舗カメラメーカーが苦しんでいる現状に似ている。
レコードからCDとなり、ダウンロードというデータの台頭でCDも売れなくなったという。
新聞もインターネットの進化で買わなくなった。
しかし、こうした中でも、新聞、CDより古いレコード、フィルムカメラ、機械式時計などが再注目されている。
先ほどお話しした万年筆や手帳もこの流れを組んでいる。
ここで共通して言えることは、レトロを感じられる昔のものであること。
その「古めかしさ」「便利ではない」ことが、所謂「味がある」ということになるのではないだろうか。
今風にいうと「スマートではない」は「味がある」と感じている方々が一定層いると思われる。
これはレトロと感じられる昔のものを、経験していない者も経験した者も同様、老若男女にかかわらずだ。
未経験者は、むしろ目新しさすら感じていることの「味がある」であろう。
経験者では、昔のことを懐かしく感じていることの「味がある」であろう。
見方、スタート地点の違いはあるが同様に「味がある」と感じているはず。
この「味がある」ものを「自分らしく自由に」使っているのが未経験者であり今の流行と言える。
その自分らしさはSNSでも投稿され、それがブームとなり経験者も「自分らしく自由に」使いだしている。
「自分らしく自由に」
今思えばUDEMACIも同様の心理から始まった。
100年前のアンティーク懐中時計を初めて手にした時、その美しさに魅了された。
ケースの彫刻や文字盤のインデックス、スモールセコンド、針の繊細さ、リューズの首元や環、その全てが目新しく感じた。
ケースは銀無垢製、そして裏蓋を開けると美しく磨かれたムーブメントに目を奪われた。
機械式腕時計が好きで常に着用し雑誌も愛読していたが、別物であることにかなりの衝撃を受けた。
アンティーク懐中時計のメーカーは、数えきれないほど存在する。
当時有名であったメーカーも吸収や合併、或いは廃業などその多くは現存していない。
その中でも現在まで存続し老舗メーカーとして成長し続けたメーカーも存在する。
昔は懐中時計が当たり前であり一世を風靡していた。
人々が持ち歩く時計が懐中時計であった。
その後、戦後辺りから世の中は一般的に腕時計に変わっていった。
やがて懐中時計は使われなくなり、多くの懐中時計は所有者の目に触れることなくそれぞれの家庭で眠りについていった。
現在では世代が変わり、家庭で眠っていた懐中時計が世に出てきている。
それらを知った頃から現行の腕時計に興味を示さなくなってしまった。
しかし、懐中時計はあくまでも懐中時計であり腕時計としては使用できない。
そこで腕時計にする想いが湧き上がったのだった。
今思えば、「レトロと感じられる昔のもの」であるアンティーク懐中時計を腕時計としてカスタマイズし「自分らしく自由に」したものがUDEMACIだったのかもしれない。
UDEMACIは、志を同じくする同志と多くの方々のご協力で誕生させることができた。
ジェームス・ディーンのラッキーウォッチという懐中時計の話は有名だが、不思議なことに我々もアンティーク懐中時計が結んでくれた縁によるところが大きい。
アンティーク懐中時計には、それぞれが歴史を刻んできた不思議な存在感がある。
コレクターの方々と話をしていると、アンティーク懐中時計は意志を持っているのではないかと感じてしまうような不思議な逸話を持っていることが多い。
真意はともかく、これは所有者がどれだけの想いを持って懐中時計に接しているかが思い知れる。
それだけアンティーク懐中時計には不思議な魅力があるわけだ。
ひとりでも多くの方に「味がある」UDEMACIを体感していただきたい。
photo.KJ
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