ラップトップと手帳

「IT」「デジタル」「AI」「メタバース」…

近頃、このような言葉をよく耳にする。

その流れの1つで印鑑の廃止なども話題になっていた。

印鑑は日本においてもはや文化的位置づけにある。

親から印鑑は自分の分身とも言えるほどに大切に扱うよう言われたものだ。

古い人間ほど印鑑に対してそう感じている人が多いと思う。

その背景には実印という日本の文化がある。

実印とは自分を証明するものとして役所へ登録したもの。

言わば自分自身。

会社であっても実印はある。法務局へ登録したもので会社自身。

海外ではサインの文化があり、日本においてもサインでという流れなわけだ。

そういった背景からか認印というものが失われつつある。

役所で住民票を申請する際に印鑑が必要であったがサインでも可能となった。

確かに便利ではある。

デジタル化という流れとは少し意味合いは違うが、デジタル化は日本文化の廃止のような側面もある。

文化の発展=デジタル化=産業革命

「日本は遅れている」とよくコメンテーターが発しているがいささか疑問がわく。

要するに、日本の現状を海外基準にしようという流れで、日本の文化を海外の文化にしようという風にも観えさえする。

ただ単にその物事を取り上げて遅れている遅れていないではないと思う。

表面的な技術ではなく大切なのはその文化との関係性であり、その部分をないがしろにすると危険であるとさえ感じる。

色々な背景がそこにはあるが、キャッシュレスなスマホ決済もある時期に盛んに行われ一気に普及した。

先日、レジで並んでいる際、目の前で行われていたスマホ決済を見ていて少し違和感を感じてしまった。

お客さん側はスマホの画面を差し出すだけで一切言葉を発することはなかった。

店員さんはもちろん丁寧に言葉を発している。

「ありがとう」「はい」など普通はあると思う。

が、そのお客さんは何も発することなく商品を手に取り、その場を去って行った。

個人差もあるとは思うが、デジタル化の側面には対話文化もなくなるのではと危機感をおぼえた。

もはや文化というものではなく礼儀の話ではあるがそう感じたのは事実だ。

昔、商店街に活気があった頃はお店の人の声もお客さんの声もはっきりと聞こえていた。

そこには間違いなく対話があった。

昭和、平成、令和とデジタル化が進み明らかに対話がなくなってきている。

対話に代わるものがそこにあるからなのだろうか。

2040年問題としてよく言われる無人化もこれから益々進むだろう。

無人化となれば多くの場でAIに取って代わられ職を失うと言われている。

古い考えかもしれないが、はたしてそれでいいのだろうか。

人は利便性を追い求め産業は発展し豊かになった。

昭和の高度成長で大きく飛躍し現代までに目まぐるしい発展を遂げてきた。

普段の生活の中で不便さを感じることはなく、言わばデジタルの世界にしかその先の利便性が見出せないほどに。

時代は変われど世の習いかもしれない。

明治の文明開化から日本は近代化に向け突き進んできた。

しかし、今までと、これから、では人の関係性に大きな違いがあると感じる。

インターネット絡みの犯罪が後を絶たないのもその例である。

利便性の追求による合理化なる省略に人が対応できていないように思う。

この点において申し訳ないが無法地帯と言える。

行政も学校も企業も携わる人もである。

そしてその被害者への対話もできていないように思える。

学校で学ぶ歴史の教科書を見てもわかる通り、いつの世も人は何も変わっていない。

歴史とは、年表を学ぶのではなく、その時代その時代を一生懸命に生きてきた人から生き様を学ぶものとしてあるべきだ。

どれだけこの世の中が発展しても人は人であるべきである。

発展に伴い今のこの世の中でストレスを感じている人は多くなっている。

デジタル化で利便性を追い求めストレスは無くなるのだろうか。

デジタル化は一部の利益の追求でしかなく、心とは反し、むしろストレスを感じる人々はより多くなると思える。

文化の発展は時に人を退化させていくようにも感じる。

昔はかなりの数の友達の電話番号を記憶していた。

しかしこの時代において自分の番号以外は記憶しなくなった。

むしろできなくなったと言ってもいいほどかもしれない。

時代の流れで失ってきたものは多く、「風が吹けば桶屋が儲かる」と言った具合にその結果ストレスを感じるようになってきている。

私も毎年愛用している能率手帳の老舗手帳メーカーが、コロナ禍による調べで面白いデータを公開していた。

手帳万年筆

コロナ禍において手帳を活用し手書きをする人が増えているとのことだ。

感情を書き出したい、気持ちを整理したい、日記をつけたいと感じている女性が多くなっているようで、男性もウェブ会議の増加でメモを取る場面が増えたそうだ。

そして、手帳に書き出すことがストレスの解消につながっているということもわかったようだ。

このことこそデジタル化の流れで必要なことではないだろうか。

自分と向き合える時間が大切であることを物語っている。

自分を見失うことが多い時代。

そのことが大きなストレスにつながってきている。

これはひとえに物事に関わりを持つということの大切さかもしれない。

デジタル化の流れで物事への関わりは薄くなり瞬く間に過ぎ去る瞬間でしかない。

手帳の例で言えばスマートフォンのカレンダーやメモのようなもの。

「味気がある」の話の際に書いたが、物事への関わりの希薄が、自分と向き合う時間を無くし、ストレスを招いているのかもしれない。

忙しく日常を過ごしている時、ふと腕にはめている時計に目をやると、暫く見つめてしまい心が落ち着いている瞬間がある。

アンティーク腕時計/懐中時計

そんな時ほど何処と無く時計の見え方が違ってることから、暫く見つめてしまうものだ。

「こんなに丸かったかな」
「こんな文字盤だったかな」

というようにどこか違って見えている。

見え方というのはその時々の感情によって変わるもの。

姿形であったり、文字盤であったり、針であったり、インデックスであったり、リューズであったり、素材であったりと、その時その時の心境で目を引くところに違いが生まれる。

ストレスを感じている時ほど、その違いを明確に感じることが多い。

懐中時計と万年筆

じっと腕時計を見ていると無心になっていることから心が癒されていくのがわかる。

この行為そのものが意外と自分と向き合える時間になっている。

腕時計は機能ではなく人にとって大切な存在なののかもしれない。

忘れていた何かを思い出させてくれる。

時計とは江戸時代以降に呼ばれた名称、元は「土圭」と書いていたそうだ。

この土圭は、土に影をさす日時計を表した言葉であったようで変遷を経て「時計」となった。

懐中時計から腕時計と進化した現代。

腕時計は時を知るだけでなく、人が身につけるストレス解消の新たな役割を担っているのかもしれない。

photo.KJ
text.KJ