UDEMACIアンバサダー翔大、南伊勢町と北畠家

「UDEMACI」のアンバサダーであるシンガーソングライター翔大は、南伊勢町の観光大使をしております。
その南伊勢町をご紹介します。

南伊勢町のサイトには…
「南伊勢町は、平成17年10月1日に、南勢町と南島町が合併し誕生した新しい町である。
古来、建武年間に北畠顕能が伊勢国の国司に任ぜられたことから、室町時代の終わりごろまで北畠氏の支配を受け、その後、藩政時代には紀州藩に属し、明治に入って三重県に編入された。 明治22年4月、町村制の施行とともに旧町村を形成し、昭和の大合併で2町となり、さらに今回の平成の合併により新生「南伊勢町」となった。」

と説明があり、
南伊勢町は合併した比較的新しい町であることがわかります。

この南伊勢という名称は古くから存在しており、古くは伊勢国司であった北畠一族が一志・飯高・飯野・多気・度会の五郡を中心に三重県の戦国大名(公家大名)として支配をしていました。

この五郡のことを「南伊勢五郡」と呼んでいました。

今の南伊勢町とは意味合いが少し違いますが当時の南伊勢という名称が唯一残る町として存在しています。
南伊勢町のサイトに記載ある「北畠顕能」は「きたばたけ あきよし」と読み、伊勢北畠家の初代として伊勢国司としても知られています。

この北畠顕能は、歴史の教科書でも記載されている「後の三房」として有名な後醍醐天皇の側近であった「北畠親房(きたばたけ ちかふさ)」の三男として知られています。

元々、北畠家は、京都の洛北にあった北畠という地に館があり北畠を名乗ります。

その後、代々公家として天皇を支えてきました。

鎌倉時代末期に、後醍醐天皇が京都を追われる事件が起こり、北畠親房も京都を追われます。北畠親房は、伊勢神道の大成者であった伊勢神宮の度会家行と親交があったことから現在の三重県に移り、南伊勢に南朝勢力の拠点として北畠家を移すことになりました。これが伊勢北畠家の始まりとなり、初代が北畠顕能になります。同時に伊勢国司にもなりましたので初代伊勢国司として北畠家は戦国の世まで続くことになります。

幕府支配下において治外法権のようにその地を支配していた国司は少なく、伊勢国司として存在した北畠家は貴重な一族として知られています。

戦国大名として、三重県に勢力を誇っていた北畠家、あまり知られていない存在ですが、歴史に名を残した名家でありました。北畠親房は、南北朝の動乱の中「神皇正統記」という書物を記しております。この書物は後醍醐天皇の南朝の正統性を記したものではありますが、神代より記された日本の歴史書としても知られ、水戸光圀は神皇正統記を参考に歴史書「大日本史」を記したともされています。この神皇正統記は、幕末には志士のバイブルとして大変著名な書物でした。

そんな伊勢北畠家・初代伊勢国司北畠家ではありますが、三重県=北畠家となっていない現状は大変さみしい気がします。
北畠顕能ゆかりのある南伊勢町、南伊勢町のサイトにもしっかりそれは記されています。

南伊勢という名称を唯一持つ南伊勢町、伊勢国司北畠家を全面におしだして町おこしをしてもらいたいところです。

それらのルーツを持つTradTradとしては観光大使である翔大との縁もさることながら伊勢志摩に深い縁があるので、是非とも連携して何かしたいという思いに駆られています。

text.KJ